横須賀市にある衣笠病院グループで訪問診療のお手伝いをしている。ある日の訪問診療で、お菓子屋さんの2階に、寝たきりのN子を訪れた。目鼻立ちも整っていてさぞかし若いときは美人だったのだろう。世話をしている実の娘さんに聞くと、「お菓子屋の看板娘で、町内では小町むすめとよばれていたそうですよ」と言う。「若いときの写真を見たいですね」というと、「それがね・・、お母さんがまだ元気なころアルバムから自分の写真をみんな引き抜いて、捨ててしまったんですよ」と言う。「どうして?」と聞くと、「理由は分からないのですけれど・・・ 気に入らなかったでしょうかね?」、「何があったんでしょうね」という。本人に聞いて見たいけれど、本人は鼻からチューブが入っていて言葉を発することもない。
そんな小町むすめさんの背中の褥瘡を看護師さんと処置して、「よいしょ」と身体をもとの位置に戻すと、急にそれまで閉じていた目を「キッ」と見開いて睨まれた。娘さんが「あら、お母さん聞こえていたのかしら?」と言ってにこやかに笑った。「聞こえていましたか?」と聞くと、何も答えず目を閉じられた。90歳近いお菓子屋の小町むすめのN子さんにも、若いときの言葉にはしたくない「思い出」が心の中を駆け抜けたのだろうか?
診療を終わって部屋を出て、暗くて狭い階段を下りて階下のお菓子作りの工房のわきの廊下を通った。そのとき工房でN子さんの息子さんが作っていた桜餅の香りが廊下に流れてきた。12月の寒い日だというのに、なんとなく春めいた風が吹き抜けたような気がした。