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健康の定義


 このエッセーでもWHO(世界保健機構)の健康の定義の見直しについて触れたことがある。健康の定義は1946年のWHO憲章の前文で以下のように定義している。「健康とは、身体的、精神的、社会的に全てが『完全に良好な状態』であり、単に病気がないとか病弱でないということではない」。

 しかしその後、いくつかの見直し議論が起きている。このエッセーでも以前、取り上げたのは、オランダの女性の家庭医マフトルド・ヒューバーらが2011年ころに提唱した復元力(レジリエンス)と言う考えだ。復元力とは「個人が社会的・身体的・感情的な問題に直面したときに、困難な状況に適応し、対処する能力」のことだ。この復元力こそが「健康」の定義であるとした。

 実はWHOでもこうした健康の定義の見直しが試みられたことがある。1998年のWHO総会の下部機関の執行理事会において、WHO憲章前文の見直し作業の中で、「健康」の定義を「完全な肉体的(physical)、精神的(mental)、霊的(Spiritual)及び社会的(social)福祉の動的(Dynamic)な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」という改正案が出た。執行理事会では霊的(Spiritual)は人間の尊厳の確保やQuality of Life(生活の質)を考えるために必要な本質的なものであるという意見が出た。また動的(Dynamic)については、「健康と疾病は別個のものではなく連続したものである」という意味づけの発言がなされている。執行理事会でこの改正案については結局投票となり、その結果、賛成22、反対0、棄権8で総会の議題とすることが採択された。

 こうしてこの健康の定義の改正案は1999年5月にスイスのジュネーブにおいて開催された第52回WHO総会において審議された。総会では数カ国から憲章前文について討議すべきとの意見も出された。しかし現行の憲章前文は適切に機能しており本件のみを早急に審議する必要性が他の案件に比べ低いなどの理由で審議されなかった。このため健康の定義に係る前文改正案はまぼろしに終わる。やはり憲章前文の改正は難事業だったのだ。

 また審議されなかったもう一つの理由は、この案がWHO東地中海地域事務局からの提案であったことも関係しているようだ。この地域はイスラム文化圏だ。このため霊的と言う概念がイスラムの文化的宗教的な背景に基づいているとされたことも影響したのかもしれない。

 霊的と言う概念は確かに宗教的な概念だ。キリスト教においても天の父、救い主イエス、聖霊の三位一体が中心概念だ。また仏教においても、ほとんどの宗派で死後に中間的な霊の状態を経て仏になるという教えを説いている。

 さて著者が勤務する日本医療伝道会衣笠病院グループのモットーは「全人医療」だ。全人医療とはキリスト教精神の文脈では「からだとこころとたましいが一体である人間(全人)に、キリストの愛を持って仕える医療」と定義されている。こうした全人医療の立場からすれば、WHOの健康の定義にスピリチュアルを加えることに何の抵抗もないだろう。

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