エッセーの投稿

種をまく人


 昨日の衣笠病院の朝の礼拝で、赤松牧師が選んだ聖句はコリントの信徒への手紙二 9章10~12節だ。「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」

 よく引用される箇所だが、これまでその意味を誤解していた。「小麦の種をまくことで、将来の糧としてのパンを得る」ことだと思っていた。

 ここでの「種」と「パン」は、それぞれ異なる目的を持っているのだ。は、将来の収穫のために蒔くものだ。つまり、施しや善意の行いの象徴だ。一方、パンは、今の糧、生きるために必要なもの、神が日々与えてくれる糧ということだ。。

 だからこの聖句は、「神は、施しのための種も、日々の糧も、両方をちゃんと与えてくれるということ」なのだ。つまり種を蒔く人が困らないように、神はパンも用意して与えてくれると言う意味だったのだ。

 以前、JICAのプロジェクト方式技術協力の専門家として東南アジアの途上国に行ったとき、専門家の間でよく聞いた言葉は以下だ。「(援助とは)魚を与えることではない。魚の釣り方を教えることだ」。このためJICAでは例えば医薬品のような消耗品の援助を行うことは決してなかった。

 でも現地の医薬品が不足する現状をみてふと思った。途上国に技術移転をすることは大切だ。しかし同時に、技術を受け入れるため日々の暮らしを支えることも大事だ。そのための最低限の物資援助も必要なのではないかと思ったことがある。

 その点、このコリントの信徒への手紙の聖句はなかなかよくできている。種をまく人にも日々のパンを与えるというのは理にかなった教えだ。日々のパンがなければ種も蒔くこともできない。