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坊さんに先を越された話


 まだ著者が新潟の田舎の小さな国立療養所にいたときの話だ。のどかな田園に囲まれたこの病院では、ときどき病院の車で外来の婦長さんをつれて患者の家に往診することもあった。

 ある夏の晩、在宅で看取り希望の脳卒中で寝たきりのおばあさんの息子さんからの電話がかかってきた。「そろそろ亡くなりそうだから往診に来てほしい」という。これを聞いて、すぐに婦長さんと二人で患者さんの家をめざして車をはしらせた。初夏の夜風をうけながら、カエルの鳴き声がする真っ暗な田んぼ道を車を走らせていると、うしろから猛スピードで追い越していていく車がある。「あれ、同じ家にむかっているのかな?」と思っていると、やっぱり患者さんの家の前でその車はぴたりとまった。そして車を下り立ったのは、なんと袈裟すがたの若いお坊さんではないか!

 あわてて、われわれも往診かばんをかかえて家にかけこむと、くだんのお坊さんは集まってきた村の人たちにてきぱきと指図して、段取りよく祭壇を作っているではないか。そして患者さんはといえば、すでに顔に白い布をあてられて布団の中に横たわっている。

「あの・・・、まだ死亡確認をしていないので、させてください。」とおそるおそるお通夜の準備に忙しい家族に声をかけた。そして祭壇作りにあわただしく立ち働いているお坊さんを横目にしながら、患者さんの顔を覆っている白い布をとり、胸の前の紐で結ばれた両手をほどき、胸の上に添えられた脇差の刀を横に置いた。そして患者さんの瞳孔をみて、胸に聴診器をあてて死亡を確認した。そして、もとのように死に装束を整えて、お坊さんのお通夜のお経を、家族や村の人たちと一緒に聞いて病院に戻ってきた。

 それにしてもこんなに段取りのよい在宅看取りにはびっくりした。とくにお坊さんに先を越されたのは、はじめての経験だった。それからはお坊さんに先を越されないように気を付けることにした。

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