1949年生まれの団塊世代の著者は、子供のころ現在の神奈川県川崎市川崎区小田で育った。小学校のころお世話になった小田の診療所の先生のことが今でも忘れられない。自分がかかりつけ医を考えるとき、最初に思い浮かぶのが口数は少ないけれど頼りがいのあるその先生のことだ。
小田の商店街の裏道の奥まった場所にひっそりとその診療所は立っていた。風邪をひいて、その薄暗い診察室に入ると、まず最初に目に飛び込んでくるのが机の上に並べられた血沈の測定ガラス棒だ。血沈とは赤血球沈降速度のこと、ガラス棒の中に抗凝固剤をまぜた血液を入れて垂直に立て、赤血球が沈んでいく速度を計る。血沈速度が亢進していれば炎症が疑われる。薄暗い診察室の中のガラス棒の中の赤い血液の色が、子供心に焼き付いた。そしてその先生が書く診察カルテも覚えている。おそらくドイツ語だったのだろう。意味は分からないが滑らかな横文字で書かれたカルテだった。
昭和の団塊の世代の子供たちは、感染症にしょっちゅう罹っていた。私もその例にもれず、はしか、しょう紅熱、急性胃腸炎、回虫症、中耳炎や結膜炎など感染症のオンパレードだった。感染症で亡くなる子供たちも多かった。映画化もされた石井桃子作「ノンちゃん雲にのる」(1955年)では主人公の8歳の女の子のノンちゃんが疫痢にかかって発熱して、冷たい窓のスリガラスに頬を押し付けて熱をさます場面がでてくる。熱を出すたびにその光景を想い浮かべていた。
しょう紅熱にかかったときなどは小田の診療所の先生が往診にも来てくれた。当時は点滴もない時代、喉の痛みで食事もとれなかったとき、太ももの皮下に太いガラスの注射器でゆっくりと皮下注で輸液してくれた。注射筒を押しながら、その先生と母の会話が聞こえてくる。
「ご専門はなんですか?」と母が尋ねると、その先生は「専門は臨床検査でしたけれど、開業してからは何でも診ています。子供からお年寄りまでどんな方でもみますよ」という。
そして帰り際に「しょう紅熱になると腎炎にもなることがあるので、しばらくしたら尿たんぱくの検査に診療所に来てください」とも言った。
その川崎の下町の診療所の先生の後ろすがたが、私の「かかりつけ医」の原点だ。