
シュバイツァー博士が特に愛した聖句としてよく知られているのが、マタイによる福音書25章40節だ。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。シュパイツァーの著作「水と原生林のはざまで」や「シュバイツァー自伝」にも、この聖句への言及がくり返し見られる。
アルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer)は1875年、現在のフランス・アルザス地方で生まれた。父は牧師で、音楽や宗教に囲まれた環境で育った。幼い頃から音楽の才能を発揮して、特にオルガン演奏ではバッハの演奏家としても名をはせた。
彼はストラスブール大学で神学と哲学を学び、博士号を取得。その後、神学者・哲学者・音楽家として活躍しながらも、「他者のために生きる」という信念を深めていった。
30歳のとき、彼はある決断をする。それは、アフリカで医療活動を行うために医師になることだ。すでに神学博士であり音楽家としても成功していたのに、あえて医学を学び直す道を選んだ。1913年、医師の資格を得た彼は、妻ヘレーネとともにフランス領赤道アフリカ(現在のガボン)のランバレネに渡り、そこで病院を開設。現地の人々のために医療活動を始めた。第一次世界大戦中は敵国人として抑留されるなどの困難もあったが、彼はその後も何度もアフリカに戻り、晩年まで医療と人道活動に尽力した。
さてシュバイツァーのランバルネ病院時代のエピソードで、彼は決して病院にレントゲン装置を導入しようとはしなかったことが伝わっている。これに対して批判的な現地の人もいた。著者も若いときにその話を聞いて、「なぜ最新のテクノロジーを導入しなかったのだろう?」と疑問に思った。
ところが後年、著者がJICAの専門家として途上国の技術援助に出かけたとき、その理由がようやくわかった。途上国援助では、適正技術(appropriate technology)の考え方が主流なのだ。途上国のインフラでは先進国の最新技術の移転は難しい。電力が安定せず、レントゲンフイルムの購入費用もままならず、機器故障時のスペアパーツも手に入らない。ランバルネではレントゲン装置の導入はムリだ。
似たようなエピソードをJICAの研修で聞いたことがある。ある途上国が高い乳児死亡率を下げるために、その国の首都の大学病院にNICUの設置とその技術移転を日本に要望してきた。しかしJICAが逆提案したのは、地域の母親の教育と下痢症にたいする経口補水液の普及だった。途上国の現状にあわせた適正技術の移転こそが持続可能な援助の基本だ。
シュバイツアーがランバレネ病院にレントゲン装置を導入しなかったのもこうした理由からである。
