
聖書にはハンセン病が登場する箇所がある。ルカによる福音書 5章12節~16節のイエスが重い皮膚病に苦しむ患者を癒した場面だ。重い皮膚病とはハンセン病(らい病)のことだ。さてイエスの癒しの力は具体的にはどのようなものだったのだろうか?イエスが行った癒しは、多くの場合、触れることや祈りを通じて、病気や怪我に苦しむ人々に安心と回復を与えるものだった。心や体だけでなく、人々の魂そのものを癒していた。
ハンセン病は日本でもごく最近まで差別や偏見の対象となっていた。そしてハンセン療養所での患者の強制隔離が続いていた。しかし2001年にようやく国もハンセン病患者に対する隔離政策の誤りを認め、ハンセン病患者・元患者に対して謝罪した。
これに貢献した医師が大谷藤郎(おおたにふじお)医師だ。大谷先生とは生前、お会いしたことがある。謙虚で私のような若造の言う事にも耳を傾けてくれた。大谷先生は厚労省の課長だったころ、ハンセン病の患者団体を課長室に呼び入れて親しく話された。当時としては前代未聞のことだった。
大谷先生は1924年滋賀県に生まれる。京都大学医学部に在学中から、やはり京都大学の出身で、ハンセン病の患者さんの数少ない隔離政策反対論者であった小笠原登先生に師事する。当時はまさに日本中が「ハンセン病というのは治らない怖い伝染病だ」と思いこんでいた時代だ。しかし小笠原医師はたくさんのハンセン患者を診て、そうでないと主張していた。
ハンセン病は日本でも奈良・平安時代から知られていた古い病気だ。しかしそのころは明治以降ほどのひどい扱いではなかったようだ。それが明治時代に西洋医学の影響から、ハンセン病は伝染する病気だと考えられるようになり、ひどく怖がられるようになった。1907年(明治40年)、他の人に伝染させないようにということでハンセン患者の隔離収容政策が始まった。
1931年(昭和6年)にはどんな患者さんであっても強制的に収容して、外へ出させない絶対隔離をめざす「らい予防法」(旧法)が強化された。なんと「患者を一人でもなくすことが大和民族の血の純化をはかる」と考えられて、県に一人も患者がいないことが国家、社会のためであるという「無らい県運動」が行われた。このような隔離政策を行った先進国は日本以外にもあったが、ここまで徹底した国は他に例を見なかった。
大谷先生は、こうした中、1959年(昭和34年)に旧厚生省に入り、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任する。その間、ハンセン病や精神障害者などの人権回復に尽力した。
そして大谷先生は1983年(昭和58年)に厚生省を退任される。ところが、1989年(平成元年)に大谷先生はがんにり患され入院した。大谷先生はこのがんは治らないかもしれないと思ったとき、やり残したことがあることを確信した。それが「らい予防法」の廃止だ。その後、大谷先生の尽力もあってさまざまな議論を経て、1996年(平成8年)に、ついに「らい予防法廃止の法律」が制定される。そして国は療養所で患者さんを最期まで生活保障することを約束する。しかし国の過去のハンセン患者に対する人権侵害の責任はそのままだった。
これに対して1998年に13人の元ハンセン患者が集まって国を訴える裁判を起こした。この裁判で、大谷先生はなんと元厚生省局長の立場にありながら、「らい予防法は誤りだった」と証言した。当時、私もこのニュースを聞いて衝撃を受けた。元厚生省幹部が国の法律の誤りを認めたのだ。
大谷先生は言う。「長年にわたるハンセン病問題の核心部分は、日本の社会が少数者の人権というものを本当に考えていなかったということではないでしょうか。人権というのは、自分の人権のことだけではありません。他者の人権が自分と同じように守られているかを考えるのが、本当に人権を考えるということではないかと思うのです」。
そして2001年についに国はハンセン病患者に謝罪をする。
大谷先生は1993年、社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を受賞される。 大谷先生は2010年12月に86歳でその生涯を閉じられた。