
2015年にパリのセーヌ川のシテ島にあるパリ市民病院を見学したことがある。市民病院の医療材料を扱う中央材料室の見学のためだ。
パリ市民病院はオテル・デュー・ド・パリ(Hôtel-Dieu de Paris)と呼ばれていて、パリで最古の病院だ。オテル・デューは直訳すれば「神の家」だ。神の家はもともと修道院だった。修道院は旅に病んだ人を泊めて修道士や修道女が世話をしていた。病院をHospitalと呼ぶのは、ラテン語のHospesが語源だからだ。HospesとはCare for Stranger の意味だ。ヨーロッパではこうした修道院が病院の起源となっている。
しかし当時の医師はもっぱら金持ち相手の在宅医療で生計を立てていて、旅人や貧乏人を診る修道院でもある病院に近づこうとはしなかった。ところが16世紀のルネサンスにより、それまで宗教的理由で禁止されていた人体解剖が許されるようになる。すると、オテル・デュー・ド・パリでも病理解剖が行われるようになる。これが医学を劇的に発展させることになった。このため医師たちはそれまで近づこうともしなかったオテル・デュー・ド・パリに足しげく通うようになる。
さらにフランス革命後、19世紀になるとオテル・デュー・ド・パリでは、フランス病院学派が興隆する。この学派は医師や学生が直接患者を観察し、治療法を学ぶという今でいう「臨床教育」の大ブームが巻き起こったのだ。このためますます医師や学生がオテル・デュー・ド・パリに集まるようになる。こうして中世に旅人や貧民を見ていた修道院が突如として近代的な病院へと変わったのだ。
このためオテル・デュー・ド・パリを訪れると、かつてのフランス病院学派の医師の名前をあちこちで見ることができる。神経学者として有名なシャルコーや外科医のデュピュイトランもオテル・デュー・ド・パリで診察をしていた。またルイ・パスツールもオテル・デューで感染症研究を行っていた。
またオテル・デューでは中世の歴史も垣間見ることができる。オテル・デューではワインの製造も行っていた。そのワインは、カトリックの宗教的な儀式や医療用途の一部として利用されていた。このためリヨンのオテル・デューにはいまだにワイナリーがあり、地下にワイン貯蔵庫がある。