
医学部の学生だった頃、加藤周一の自伝小説「羊の歌」を授業の合間に繰り返し読んでいた時期があった。「羊の歌」は全2巻からなり、前巻は1919年の羊年生まれの加藤周一の生い立ちと、東大の佐々内科の無休医だった頃から敗戦までの青春記である。後巻の「続羊の歌」は終戦を東大助手として迎えた1945年から安保反対にわく1960年代までの時代を、フランスの病院留学時代をはさんで描いている。
この「羊の歌」で印象に残ったのが、東大の佐々内科が戦時中に信州に戦時疎開をしたころのエピソードだ。東大の佐々内科は後の東大第二内科の前身で、加藤周一はそこで血液内科を専攻していた。この佐々内科が戦火を逃れて貴重な血液疾患の顕微鏡プレパラートごと信州の上田の病院に疎開してくる。そうした疎開先の病院で、敗戦の色も濃くなったある晩のこと、加藤らは米軍がまた日本軍の占領する島のひとつに上陸したというラジオ報道に接する。
そして大本営が「断固敵を粉砕する」と発表するのを聞く。これに加藤は「そうはゆかないだろう」とつぶやく。するとこの一言に、友人の医者が反発し、2人は激しい言い争いとなる。その議論は事実判断と価値判断の違いの議論だった。加藤は事実判断については一歩も退くことなく、最後には友人の医者を沈黙させてしまう。 こうした 加藤の言辞に対して戦時中の信州の病院の職員は反発し敬遠する。しかし加藤には唯一の理解者もいた。それは疎開先の病院長だった。院長もやはり敗戦が近いことを冷静に予告する。このため共に、その発言は戦時一色の周囲の人々の反目を買うところとなっていく。そして、その緊張の高まる頂点で、信州にも敗戦の報がやってくる。
さて、この信州の東大の佐々内科が疎開していた病院が、上田市の柳沢病院であり、また加藤周一らが宿泊していたのが上田奨健寮である。当時の柳沢病院の玄関には「東京大学医学部佐々内科教室分室」という看板が掲げられていたという。そして上田奨健寮は戦後、国立東信病院となり、さらに国立長野病院となり、現在の信州上田医療センターへと変わる。この加藤周一が上田に疎開していたのは、終戦の1945年3月末から8月末までのことで、加藤26歳のときのことだ。
著者もこの国立病院の再編成の仕事の一環で東信病院とその地で建て替えられた国立長野病院で過ごしたことがある。今また羊の歌を読み返してみて信州の冬のピーンと張りつめた空気を思い出した。