
「たとえ死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」(詩編23篇4節、旧854p)。
新薬の開発過程で聖書の言葉、死の谷(Valley of Death)が出てくる。薬の開発は3万分の1の成功確率と言われるくらいの過酷なプロセスを経る。死の谷とはこの新薬の開発過程における危険な谷を意味している。
聖書における「死の陰の谷(Valley of the Shadow of Death)」は、「人生における最も深い絶望、苦難、あるいは死の危険が迫る場所」を意味している。これが現代のビジネスの新薬開発の世界に転じ、新薬が市場に出る前に直面する「最も過酷で、多くのプロジェクトが脱落する魔の領域」が「死の谷」と呼ばれるようになった。
新薬開発における死の谷とは以下のステップのことだ。動物実験などの非臨床試験からヒトに投与する初期臨床試験(ヒトへの初投与)」へ移行するフェーズのことだ。
大学などでの動物実験の基礎研究の段階ではそれほど資金はいらない。政府の補助金でも行えるレベルだ。ところが、それをヒトに投与する臨床試験になると、製薬企業や投資家からの莫大な資金投入が必要となる。ヒト試験には生命へのリスクを伴うことと臨床試験の遂行に莫大な資金が必要だ。
まさに詩編が描く「命の危険が伴う最も過酷な試練の場所」である「死の谷」なのだ。この死の谷を乗り越えられず、世の中から消え去った薬の候補は数多い。
日本人が開発した抗がん剤のオプジーボも、その死の谷であわや消え去る運命に直面した薬のひとつだ。オプジーボは京都大学の本庶佑(ほんじょたすく)教授の発見から生まれた。本庶教授らが免疫細胞のT細胞の表面にある「PD-1」という分子を発見し、これががん治療に応用できるという基礎研究を発表した。
しかし、日本の大手製薬企業を含め、世界中の企業が「免疫でがんが治るわけがない」と冷淡な反応を示した。資金が集まらず、臨床試験に進むことができない「死の谷」に直面した。これを救ったのが、米国のバイオベンチャーだったブリストルマイヤースクイブ社だ。同社が豊富な資金提供を行い、無事に死の谷を抜け出すことができた。
そしてオプジーボが世に出て、本庶佑教授は2018年ノーベル賞受賞に輝いた。
