
1987年、88年にニューヨークのブルックリンにある州立大学のダウンステート・メディカルセンターに厚生省の派遣で留学していた。留学には家内とまだ小さかった子供たち3人を連れていった。住まいはニューヨーク州のおとなりニュージャージーのフォートリーにアパートを借りた。そして毎朝ハドソン川にかかるジョージワシントン橋を渡ってマンハッタンに出て、地下鉄を乗り継いでブルックリンに通ったものだ。
ジョージワシントン橋をバスで渡って、マンハッタンの175丁目からAトレインに乗ってマンハッタンを下る。そしてアトランテイック通りでBトレインに乗り継いで、ブルックリンのチャーチ通りまで約1時間の通勤だった。
ダウンステートではファミリープラクテイス(総合診療科)にいたので、ファミリープラクテイスのレジデント達と一緒に各診療科をローテートした。2年間の間にいくつもの診療科をローテートした経験はいまだに活きている。ここではブルックリンでの外科ローテーションの想い出を書こう。
外科ローテーションは、ダウンステートメデイカルセンターの通りの向こう側のキングスカウンテイ病院(写真)で行った。ローテーションはなかなか楽しかった。ただ外科の回診の早いのには参った。回診がなんと朝の6時スタートだったからだ。この時間に間に合うにはフォートリーをなんと4時半に出ないと間に合わない。外科ローテーション中はフォトリーの夏でもまだあけやらぬバス停でマンハッタン行きの一番バスを待つはめになった。そして外科病棟に行くと、黒人のチーフレジデントのもとで回診が始まる。チーフレジデントといえば病棟やオペ室のスーパースターだ。全権を握っていて、手術の大半に入る。回診の前に彼は全病棟のカルテをチェックし終えていて、号令一下、回診を始める。そして手術室に8時前には入る。
手術室でおどろいたのは手術室でBGMでポップ音楽を流していたことだ。今では日本の手術室でも流れているが、当時はめずらしかった。あとは日本の手術室と大差はない。ただ執刀医が自分で糸結びまでするのはちょっと意外だった。日本では術者の前に立つ助手が糸結びをする。それに消化器がんの手術でもあまりリンパ節隔清なども気にしない。日本で外科を学んだ身には、「あれ?リンパ節は取らなくてもいいの?」という気がした。あとは術中の軽口やジョークは日本と大差はない。
ただ外科の1年生レジデントはなかなか大変だと思った。男の医者も女医も区別もなく、昼夜を問わずスレーブワーク(奴隷仕事)そのものだ。オペ着のまま雑魚寝状態も当たり前、当直で3日間連続労働も当たり前という感じだった。まだ米国で医師の働き方改革が始まる前の頃の話だ。
外科のローテーションが夏だったこともあって、オペ室では1960年代の懐メロ“Those Lazy-Hazy-Crazy Days Of Summer”( Nat King Cole. 邦題は「暑い夏をぶっとばせ」Those Lazy, Hazy, Crazy Days Of Summer)が流れていた。このメロデイーが今でも耳の奥底で鳴り響いている。ブルックリンの夏の思い出だ。