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消える水銀血圧計、水銀体温計


 外来診療の定番の医療器具といえば血圧計と体温計だ。昭和のころはいずれも水銀式の血圧計と体温計だった。血圧をはかるとき患者さんの腕にマンシェットを巻いてカフを押して空気を送り込み、静かにカフの空気を抜いて水銀柱が降りていくのを、静かに見つめていたものだ。なんとも昭和的な診察室風景だ。

 この診察室の風景はすでに消え去った。水銀式の血圧計はアネロイド型の血圧計や電子血圧計に置き換わり、水銀式の体温計は電子体温計に置き換わった。アネロイド型の血圧計に変わったときは、「エ~、これで大丈夫なの?水銀式のほうが正確なような気がするけれど・・・」と思った。

 この診察室の風景を一気に変えたのが、日本が主導して作った「水銀製品の原則禁止」を求めた国際条約「ミナマタ条約(Minamata Convention on Mercury)」だった。ミナマタ条約は2013年に採択され、2017年に発効する。ミナマタ条約とは水銀の健康被害と環境汚染を防ぐため、水銀を用いた製品の段階的廃止を世界に求めたものだ。この条約では水銀を含む血圧計、体温計を2020年までに製造・輸出入を原則禁止としたものだ。

 水銀の毒性は、有機水銀中毒による被害を生んだミナマタ事件で世界に有名になった。水銀は神経毒性が強い。たとえば水銀を蒸気で吸入すると人体に深刻な影響を与える。体温計や血圧計は落下・破損のリスクがあり、医療現場での事故も少なくなかった。またその廃棄時に水銀が環境に漏れると、環境中でメチル水銀に変化して、生物の食物連鎖を通じて濃縮し、ミナマタ病のような健康被害をもたらす。

 さて水銀血圧計や水銀体温計にどれくらいの水銀が含まれているのだろう。蛍光灯にもわずかだが水銀が含まれている。このため蛍光灯と比較すると分かりやすい。これによると水銀血圧計1台には蛍光灯約1万本分の水銀が含まれているという。水銀体温計1本には蛍光灯の100本から500本ぐらいの水銀量が含まれている。

 日本は水俣病の歴史的経験から、この条約の成立を環境省が中心となって強く後押した。実際に2013年の採択会議は熊本の水俣で開催された。このためこの条約が「ミナマタ条約」と呼れるようになった。

 さて日本では2016年に条約を締結し、国内法(「水銀汚染防止法」など)を整備した。これにより医療機関向けに水銀機器の回収・代替化のガイドラインが整備され、自治体や病院で水銀血圧計や体温計の回収が進むことになった。現在ではほぼすべての医療機関で水銀体温計・血圧計は使用されていない。

 静かな診察室で、水銀柱に目を凝らして血圧を計っていた昭和の風景は、もうセピア色の写真の中にしか残っていない。変わってあるのはアネロイド式のぎごちないメーターの動きと、電子血圧計の「ピー」と言う味気ない電子音の世界だ。

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