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横浜の宣教医ヘボン


 ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)はあのヘボン式ローマ字のヘボンのことだ。ヘップバーンと読むのが正しい。もともとヘボンはペンシルバニア大学を卒業後、ニューヨークのマンハッタン42番街で開業して大成功した眼科医だ。

 ヘボンは若い頃からキリスト教信仰に傾倒していて、医師としての働きとともに、福音を伝えることを人生の使命と感じていた。彼は「医療は魂を開く鍵」と信じて、医療と宣教を一体として考えていた。

 日本は1858年の日米修好通商条約の締結によって、外国人の居住と活動が一部認められるようになった。これを受けて、アメリカのプロテスタント教会は日本への宣教師派遣を決定する。ヘボンはこのとき、アメリカ・オランダ改革派教会の派遣宣教師に選ばれ、1859年に妻クララとともに横浜へ渡った。こうして横浜に到着した時ヘボンは44歳だった。以後、彼は33年間を日本で暮らし、幕末から明治にかけての日本の近代化に、大きく貢献した。

 その活動の内容はおよそ3つに分かれる。一つは医療活動、二つ目は和英辞典・英和辞典の編纂、三つ目は教育活動だ。医療活動では、彼は横浜で開業し、日本初の西洋式診療所を開いた。特に眼科の診療に力を入れていて、多くの日本人の白内障を始めとした眼科疾患を治療した。彼の診療所は、のちに横浜共立病院へと発展していく。

 二つ目の活動は日本初の和英辞典の編纂だ。これは聖書を日本語に翻訳するための準備でもあった。この和英辞典の編纂の過程で、「ヘボン式ローマ字」を考案する。

 三つ目の教育活動にも熱心に取り組む。1877年に東京・築地に設立された「ヘボン塾」はその後、現在の明治学院大学と発展する。また妻クララが中心となって、横浜にフェリス女学院(現・フェリス女学院大学)を設立する。またクララは横浜共立学園の設立にも深く関わっている。この学校もまた、キリスト教精神に基づいた女子教育を行い、フェリスと並んで、横浜の二大ミッションスクールとして知られている。

 さまざまな分野で日本の近代化に献身したヘボンだが、彼は見返りを一切求めなかった。その生涯を貫いた姿勢は新約聖書にある「Do for others」の精神だ。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」 (マタイによる福音書 7章12節)という言葉がヘボンには最もよくあてはまる。

 1892年、病を得た妻と共にヘボンは日本を離れ、それからはニューヨークで暮らした。そして1911年ヘボンは亡くなる。96歳という長寿だった。

 

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