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聖パトリックのお祭り


 1980年代の後半にブルックリンにあるダウンステート・メディカルセンターの家庭医療科(ファミリー・プラクテイス)に2年間留学していた。毎朝、家族と一緒にすんでいたニュージャージーのアパートから、ジョージワシントン橋を越えて、マンハッタン経由でブルックリンまで1時間以上もかけて地下鉄通勤をしていた。

 午前中はおもにダウンステート・メディカルセンターの家庭医療科の外来センターでレジデントと患者の診察をしたり、アテンディング・ドクターと呼ばれている指導医とのカンファレンスに参加したりしていた。

 午後からはさまざまな家庭医療科のプログラムに参加するため、レジデントと一緒になってブルックリンやマンハッタンをかけまわっていた。

 そのなかでも1年目の3月の行動科学のプログラムが興味深かった。3月というのをなぜ覚えているかというとちょうどマンハッタンが聖パトリックのお祭りでにぎわっていたころだったからだ。このアイルランドのお祭りの日の3月17日には街がアイリッシュ・グリーンに染まる。家庭医療科でもアテンディング・ドクターがこの日は緑の靴下をはいてきたり、レジデントも緑のネクタイをしてきていた。別にアイルランド人でなくてもこのお祭りの日にはみんなアイリッシュグリーンを身につけるのが決まりだ。

 こんな3月に行動科学のローテーションで、さまざまなプログラムや施設見学に行った。アルコール・アノニマス(禁酒会)の集会への参加、男性同性愛者(ゲイ)グループへのエイズ教育活動、さらにはゲイとレスビアンの保護センターのプログラムなどニューヨークならではの行動科学プログラムがひしめいていた。

 禁酒会の見学のときは、ブルックリンの下町の集会室に迷子になりながらたどりついて、部屋の一角からその様子をながめていた。黒人の男女たちが車座になって、ブルックリンなまりの強い英語で、アルコール依存症の悩みや苦しみをおたがいシェアするといった集会だった。なかには感極まって泣き出す女性もいて、ちょう3月の低く雲の垂れ込めたブルックリンの空のように、重苦しい雰囲気の集会だった。

 またマンハッタンの下町のYMCAのスポーツセンターの一室で行われていた同性愛者のグループのエイズ教育活動にも参加した。当時、ニューヨークでゲイの間でエイズが拡がっていた。ただゲイコミュニテイは高学歴で、教育介入効果があるので、エイズ予防教育活動が良く行われていた。

 またマンハッタンのゲイとレスビアンの保護センターにも行った。思春期のゲイやレスビアンを周囲の偏見や差別から保護するためのセンターだ。保護センターはマンハッタンの下町の雑居ビルの一角にあって、学校の教室のようなつくりだった。実際にそこでは登校できないゲイやレスビアンの少年・少女のために学校も開かれているという。いまでは思春期のゲイやレスビアンは性同一障害として認知されているが、80年代後半のニューヨークでもようやくそれが認知されはじめたころだった。

 そのほか成人の精神遅滞のグループホームの見学にも行った。住宅街の一角にグループホームがあった。5~6人の精神遅滞の入居者が共同でくらして職業訓練に通っている。年齢もさまざま、なかには小人症の人もいて白雪姫にでてくる七人の小人のお家といった感じだった。

 聖パトリックの祝日のアイリシュ・グリーとニューヨークの曇り空、そして行動科学のローテーションがなぜか記憶のなかに混在していまでもときどきよみがえってくる。

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