
栃木県の大田原市の国際医療福祉大学のキャンパスの中にあったクリニックで診察していたころの話だ。そのクリニックの近くには、青空をうつす広大な田んぼが広がり、風が吹くたびに大麦が黄金色の波を打っていた。
あるお昼休みのこと、わたしが午前の診療を終えてリフレッシュしようと、田んぼのあぜ道をのんびりと散歩していた。すると、草むらからひょっこりと一匹の若い野良猫が姿をあらわした。茶色の目をしたその猫は、まるで「こんにちは」と挨拶をするように、トコトコと私の足元に近づいてきた。
わたしはその猫に「フィリックス」と名を付けた。その猫は、とても人懐こく、それからというもの、お昼休みになると決まってあぜ道に現れた。私が歩けばフィリックスも並んで歩き、立ち止まればフィリックスも一緒に立ち止まる。まるで小さな相棒のように、田んぼの風を感じながら二人でゆっくりと散歩をするのが、日課になった。クリニックでの忙しい日々のなかに、あたたかな癒やしの時間が流れていった。
ところが、ある日のこと。いつものあぜ道に、いくら待ってもフィリックスの姿が見当たらない。「今日はどこかに出かけたのかな」と、私はちょっと寂しく思いながらも、日々の忙しさに追われて、フィリックスのことを忘れていた。
それからしばらくしてのことだ。季節がめぐり、再びあぜ道を歩いていると、遠くからフィリックスが歩いてくるのが見えた。私が「フィリックス!」と呼ぶと、フィリックスはなんと一匹の美しい雌猫を連れていた。フィリックスは誇らしげに喉を鳴らしながら、まるで「ぼくの大切な人を紹介するよ」とでも言うように、雌猫をそっと私に引き合わせてくれた。これには私も、「フィリックス、大人になったんだね」と、心からほっこりとした気持ちになった。
そしてまた、しばらくフィリックスが見えなくなった時期があった。今度はどこへ行ってしまったのだろうかと気になっていたある日、いつものようにあぜ道を歩いていると、ひときわ賑やかな子猫の鳴き声が聞こえてきた。
視線をそのほうに向けると、先頭にはあのフィリックスが堂々と歩いている。そして、そのすぐ後ろには、よちよち歩き的小さな子猫たちが、ピョコピョコと列を作ってついてきたのです。
フィリックスは立ち止まると、振り返って子猫たちを確認し、それからじっと私を見つめた。「見てごらん、ぼくの家族だよ。あなたに会わせたかったんだ」と言っているかのようだった。
大田原の田んぼ道に響く、猫たちの小さな鳴き声と、それを見守るフィリックス。フィリックスが紡いでくれた奇跡のような出会いと家族の物語は、今日もあたたかな風にのって、田んぼのあぜ道の風景とともに思い出される。
