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善きサマリア人法の立法化を


著者が勤務する横須賀市にある衣笠病院では、毎朝礼拝がある。礼拝でよく引用される聖書の言葉に「善きサマリア人」がある。善きサマリア人とは以下の話だ。ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。そこに三人の人が通りかかる。最初に祭司が通りかかるが、その人を見ると道の向こう側を通り過ぎて行った。次にレビ人が通りかかるが、彼も道の向こう側を通り過ぎて行った。しかし三番目に通りかかったあるサマリア人は、そばに来ると、この半死半生の人を助けた。傷口の治療をして、ろばに乗せて宿屋まで運び介抱した。そして翌日になると宿屋の主人に怪我人の世話を頼んでその費用を払った。このように善きサマリア人は聖書では隣人愛の象徴として語り継がれている。

さて能登半島地震でも災害救助が行われた。その際に救助の優先順位を判断する「トリアージ」が行われている。トリアージは医療資源の制約のある中で可能なかぎり多くの救命を行うために救命の優先順位を決める手法だ。しかし混乱した災害現場で、正確なトリアージや、平時と同水準の医療処置を行うことは困難だ。このように災害現場において、医療従事者や市民が委縮せずに応急救護を行うためには、救護者の法的責任を免責する法整備が求められている。海外ではこうした一般人の応急救護を免責する「善きサマリア人法」がある。

日本でも過去にこの法整備が検討された。しかし現行法の民法の緊急事務管理や刑法で緊急避難行為でもおおむね同様の対応が可能であることから、法制化には至っていない。

しかし東日本大震災におけるトリアージ結果を不服とする訴訟が起きた。これは搬送先の病院で亡くなった宮城県石巻市の女性(当時95)の遺族が、病院正面玄関で行われたトリアージに過失があったとして訴えたケースだ。訴状などによると、女性はトリアージで治療不要の「緑」と判定された。しかし避難所への搬送まで院内の待機エリアで待つ間に脱水症で死亡した。これを契機にトリアージや応急救護における法的な課題が再度議論されるようになった。

 実際に、トリアージ以外にも交通事故に遭遇した市民の応急救護、自動体外式除細動器(AED)の普及により一般市民が除細動を行うケース、航空機内でのドクターコールなどの様々なケースにおいて、本当に現行の民法や刑法を適応して一律に免責が行えるのかには疑念もある。またいったん訴訟となったときは、訴えられた医療従事者や市民が自ら無責であることを立証する必要がある。これでは何のために応急救護やトリアージを行ったのか分からなくなる。もう一度「善きサマリア人法」の立法化を再検討してはどうかと思う。

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