
今朝の衣笠病院の朝の礼拝で田口副理事長が紹介したのは井深八重(いぶかやえ)の生涯だ。
井深 八重(1897~1989年)は、日本のハンセン病患者の救済と看護にその生涯を捧げ、のちに「日本のマザー・テレサ」とも称された看護師だ。
八重は旧会津藩の名家・井深家に連なり、父は衆議院議員、伯父には明治学院総理の井深梶之助、またソニー創業者である井深大の遠縁にあたる名家の出身だ。同志社女学校(現・同志社女子大学)英文科を卒業後、長崎県立高等女学校の英語教師として赴任した。
ところが八重が22歳(1919年)のとき、体に現れた斑点から当時「不治の病」として猛烈な差別と偏見にさらされていたハンセン病の疑いをかけられる。一族の名誉や感染を恐れた周囲により、静岡県御殿場市にあるカトリック系のハンセン病療養所「神山復生病院(こうやまふせいびょういん)」へと入院させられた。
この絶望のどん底で八重を温かく迎え入れたのが、療養所の院長のフランス出身のドルワルド・レゼー神父だった。レゼー神父や療養所の患者たちの姿に触れるうち、八重の心は次第に癒やされていく。ところが入院から約3年後、皮膚科の権威による再検査でハンセン病ではなく「誤診」であったことが判明する。当時の常識であればすぐに故郷や元の社会へ戻ることができたはずだが、彼女はそれをしなかった。「自分こそが患者たちの苦しみを最もよく理解できる」として療養所に残ることを選んだ。
残る決意をした後、八重は上京して東京・半蔵門にあった日本看護婦学校の速成科に入学し、そこで看護の教育を受けて正式な資格を取得した。そして神山復生病院に戻り、患者の身の回りの世話から、悪臭を放つ患部の手当て、洗濯や雑務にいたるまで身を粉にして働いた。その活動は長く日本のハンセン病医療を支える柱の一つとなった。
その波乱に満ちた人生と献身的な足跡は、多くの人々に感銘を与え、遠藤周作の小説『わたしが・棄てた・女』のヒロインのモデルとしても知られている。
そして数々の栄誉の受賞も授かる。1959年バチカンより聖十字架勲章を受章 、1961年、赤十字国際委員会より「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章など。1989年5月、91歳でその生涯を閉じるまで、およそ70年近くをハンセン病患者とともに歩み、キリストの愛と奉仕を体現し続けた。八重の著書には「きょう一日を」、「看護は祈り」(日本カトリック看護協会など)がある。
八重の墓碑名は以下の聖句が刻まれている。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 (『ヨハネによる福音書』12章24節 / 新共同訳)。
