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椿忠雄先生とベテスダの池


 椿忠雄先生(1921年~1987年)は神経内科の著明な医師だ。新潟水俣病やスモン病の発見で知られている。先生には新潟大学の医学部の学生のころ臨床実習で教えを受けた。痩身で白髪の先生はいつも背筋をまっすぐ伸ばして回診していた。臨床実習の仲間内では「厳しくて怖い先生」というのがもっぱらの噂だった。

 椿先生はまた熱心なクリスチャンでもあった。そんな椿先生は1965年に東京大学医学部から新潟大学の神経内科講座の教授として赴任する。その矢先、椿先生が両手足のしびれを訴える阿賀野川の漁師だった患者さんを診察する。そしてその毛髪からの高濃度の水銀が検出される。有機水銀による新潟水俣病の第一号患者の発見だ。その後、新潟水俣病の認定患者は690名にまでになる。

 椿先生は1967年から始まる第一次新潟水俣病裁判では患者側証人に立ち、患者の訴えを全面的に支持した。ところが1973年の新潟水俣病判決の結果、有機水銀を排出したチッソ(株)や昭和電工と患者の間で協定が結ばれ、1600万円から1800万円の補償金が患者側に支払われることになった。

 この頃から椿先生の患者側に立つ立場が少しづつ変化していく。そのころ先生は次のような言葉をもらす。「自分の書く診断書で、自分の退職金より多い金額を患者が手にする。この事実が、どうしても納得できないのだよ」。椿先生の胸中ははかりしれないが、水俣病患者の認定が、医学者としての診断から、補償金の認定作業に変質したことは事実だろう。

 これを境に、新潟水俣病の認定否認例が増え始める。その間の事情を問い正したお弟子さんに椿先生はこう言う。「君の言う事は分かる。今まで認定しているよりもっとピラミッドの底辺まで認定しろということだろう。しかし、そうなったら昭和電工や国はやって行けるだろうか?」。

 当時、椿先生は環境庁の専門家会議の責任者になり、有機水銀パニックを鎮静化させようと努力していたことも背景にはある。医学の専門家としての立場と国の会議の責任者としての立場の間で苦悩していたのだろう。こうして国と昭和電工はついには椿先生を被告側の国の証人として証人台に立たせようとする。しかし椿先生は証人申請が行われる直前に突然お亡くなりになる。享年67歳だった。

 聖書にべテスダの池の物語がある。「ヨハネによる福音書」第5章に記されている。この池は多くの病人が集まる場所として知られていた。彼らは天使が水を動かすと信じており、最初にその池に入ることで癒されると信じていた。このため多くの人が池の周りに集まり、池に入ることを待ち望んでいた。

 椿先生の苦悩はペテスダの池の端での苦悩だったのかもしれない。