エッセーの投稿

ウェンディ・ブラウン


 欧米において新自由主義が具体的な経済政策として現実化したのは、1980年代以降だ。民営化、規制緩和、市場原理に基づくさまざまな社会改革が実行されていく。マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンの経済政策がその典型だ。しかしその陰で格差の拡大と社会の分断化が進む。こうした新自由主義に対する批判も多い。

 最近、米国の政治学者のウェンデイ・ブラウン(Wendy Brown)の著作を日本語訳で読んでいる。「いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃」(中井亜佐子訳、2017年)だ。

 新自由主義が世界を動かすようになってすでに半世紀。民営化、規制緩和、市場拡大をすすめ、その結果、格差の拡大と固定化が問題になっている。だが、それだけだろうか?

 新自由主義のもっとも深刻な結果は、民主主義の崩壊だと、本書の著者ブラウンはいう。新自由主義が民主主義の土台まで侵食していることを、本書はあぶりだす。

 そのキーワードが「人的資源」「投資」「格付け」「ベンチマーキング」「ガバナンス」などの言葉だ。これらが目指すのは、じつは収益ではない。新自由主義は経済の言葉を別の領域に流入させる。そこが大事なところで、なぜ新自由主義が経済と関係のない領域を経済化するのかという謎を解く鍵がある。

 本来は経済原則で動いていない領域の原則を経済に置き換えることで、人びとの意識や行動そのものを変え、全体をスムーズに作り変えることができるからではないか。新自由主義は経済の「みかけ」をもちながら、統治理性としてはたらいているのだ。

 たとえば「人的資源」という言葉。そう言われて、統治されていると感じる人はそんなにいないと思う。だが、それが経済とは異なるもの――「教育」や「法」などに使われた場合は、どうなるか。人びとが手にするべき権利がその手から滑り落ちることになるだろう。

 上から押さえつけていないにも関わらず、人びとが批判をする余地は存在しない。 新自由主義は「自己投資」や「格付け」などの言葉で人びとの行動を変える一方で、国家がすべき分配の削減をすすめ、自己責任化する。矛盾の受け皿として家族の役割は強化される。市民は、緊縮財政を受け入れて「犠牲を共有」せよと呼びかけられる。

 新自由主義の見えざる攻撃によって、経済の言葉が統治理性として働き、いま民主主義を侵食するところまで進んでいる。だが、私たちを閉じ込めているものの正体がわかれば、そのからくりとは違う場所に脱出できる余地が生まれるというものだ。

 新自由主義が生み出した正体はフランケンシュタインに他ならない。