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グラム染色


 米国留学から日本に帰ってきてからは感染症の患者の検体のグラム染色を自分ですることはまったくなくなった。しかしブルックリンの大学病院の留学中にはよくやった。殺人的な忙しさで悪名高い州立病院のERのラボでグラム染色をよくしたものだ。

 スライドグラスに患者から取った痰などの検体を塗りつけてガスバーナーの火炎を通して固定する。それにゲンチアナバイオレットをかけて染色する。たいていこのとき自分の指まで紫色に染めてしまう。つぎにルゴール液をかけて水洗いをしたあと、アルコールで色素を洗い流す。最後にピンク色のサフラニン液をかけてすばやく乾かす。こうしてゲンチアナバイオレットで紫に染まったのがグラム陽性、サフラニンでピンクに染まったのがグラム陰性というわけだ。何回もうす暗いラボの片隅でグラム染色をしたので、今でもこの手順だけはおぼえている。グラム染色は米国では研修医が真っ先に覚える検査の基本手技だ。 

 その他にもERのラボでの検査の思い出は多い。エイズ患者で髄膜炎症状の患者を診たときのことだ。患者の脊髄液をスライドグラスにとって、それにインデアンインキ(墨汁)を一滴かけて顕微鏡でみた。背景の墨汁粒子の中に白く抜けたリングがみえる。一緒に見ていたレジデントも「あっ!クリプトだ!」と叫んだものだ。クリプトコッカスの墨汁染色は国家試験にもよくでるので知ってはいたが、百聞は一見にしかず、本物をみた感動ははなはだしかった。今でも墨汁の黒い背景に透明にぬけたクリプトコッカスが目に焼きついている。

 また、婦人科救急で来た患者さんの膣スメアを顕微鏡でみたときのことも忘れられない。顕微鏡の下で、まるでキウイフルーツのような鞭毛をもった原虫がおしりをふりふり泳いでいる。トリコモナスだ。なんだか急にトリコモナスがかわいく思えたのを覚えている。

 こんな風に米国留学中はラボが研修医や医者の診察の身近にあったような気がする。外来でも白癬の疑いがあればKOHを検体にかけて外来で顕微鏡をみていた。こうしたことが自分の手で診断をつけられるという自信にもつながっていた。けれど、日本に帰ってきたらシステムの違いか、習慣の違いか教育の違いかわからないが、すべて中央検査室まかせっきり、ラボが遠くなってしまったような気がする。

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