
著者が勤務する衣笠病院は、1947年に米国海軍横須賀基地司令官ベントン・W・デッカー大佐の熱心な奨励により設立された。デッカー大佐(のちに少将)は、米国東海岸のデラウエア州ウイルミントン生れで1946年4月から1950年6月まで4年2ヵ月に渡って横須賀基地司令官を務めた。
デッカー大佐は熱心なクリスチャンでもあったので、横須賀のカトリックやプロテスタントの関係者に働きかけ、その結果、カトリック系病院としては聖ヨゼフ病院、プロテスタント系の病院としては衣笠病院を発足させることになる。聖ヨゼフ病院は旧海軍の横須賀海仁会病院が聖母訪問会に託され開院した。一方、衣笠病院は共済会病院衣笠分院が日本基督教団に託され開院した。衣笠病院は1947年8月に日本基督教団衣笠病院として発足し、クリスチャンの医師たちを集めて診療業務開始、同時に毎朝職員礼拝を実施、宗教部を置き、聖書研究会などの活動を始めた。
デッカー大佐はこのほかにもキリスト教系学校の創設にも尽力した。栄光学園、清泉女学院、青山学院横須賀分校専門部などの開設だ。特に栄光学園はデッカー大佐がイエズス会に要請し1947年、栄光中学が田浦の旧海軍工廠跡地に開校する。その後栄光学園となり大船に移転する。青山学院横須賀分校は後に横須賀学院となり今に至っている。
デッカー大佐は福祉にも貢献した。横須賀キリスト教社会館は、1946年、デッカー大佐の厚意により、旧日本海軍施設を米国海軍より譲り受け、日本基督教団社会部がコミュニティ・センターとして開設したものだ。元衣笠病院の理事長も務めた阿部志郎先生が館長を務めたこともある。
このようにデッカー大佐は横須賀の医療、教育、福祉の発展に大きく寄与した。現在、その胸像が 横須賀市深田台の中央公園内に立っている(図)。