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今はなき国立病院


        旧国立横浜病院の正面玄関

 著者が最初に就職したのが、横浜市戸塚区原宿にあった旧国立横浜病院だ。国立病院は戦前は陸軍病院、海軍病院だった。横浜病院は戸塚海軍病院だった。それが戦後、1945年に厚生省に移管されて国立戸塚病院になった。そして1949年に国立横浜病院と名前が変わった(写真)。

 著者が国立横浜病院に就職したのは1978年4月、昨日のことのように思いだされる。まだ病院には戦後の面影があった。病室には結核病棟もあって、胸郭形成術後の胸腔瘻孔の患者さんが入院していて、毎日、瘻孔洗浄をしていた時代だ。

 外科に入職して最初に虫垂炎の手術の手ほどきをしてもらったのは東大医科研の出身で元海軍軍医の柴田先生だった。柴田先生はその後、国立横浜病院の院長になる。また戦時徴用された氷川丸に衛生兵として乗り込んでいたという臨床検査科の技師長もいた。

 外科には8年程いた。その間、外科病棟の先輩医師、看護師には大変お世話になった。その後、院長に国立病院を所轄する関東信越地方医務局長の浅野一雄先生が来てから、著者は当時の厚生省の留学プログラムで1987年にニューヨーク州立大学病院の家庭医療科(ファミリー・プラクテイス)に2年程送り出される。その後、帰国してからは東京の中目黒にあった、先述の関東信越地方医務局で管内の国立病院の再編統合の仕事をするようになった。

 国立病院の再編統合計画は1986年から始まった。全国の国立病院、療養所239病院を152病院にまで削減する大計画だった。まず1990年に新潟県中蒲原郡村松にあった国立療養所村松病院に送りこまれる。この村松病院を新潟市の西新潟病院に寺泊療養所と一緒に統合する計画だ。当時まだ強かった組合との間で徹夜で団体交渉を行ったのも懐かしい思い出だ。この結果、1995年に西新潟病院に村松、寺泊の病院が統合された。

 その次に向かったのが長野県の上山田町にあった旧国立長野病院で、1995年のことだ。この病院を上田市にあった東信病院と合併し、新築の国立長野病院とする計画だった。この統合は1997年に実現する。このときは初めて新病院の詳細設計、竣工までを経験した。この経験がその後、大いに役立った。その後、再編統合された旧国立病院・療養所は2004年4月より独立行政法人国立病院機構となった。

 国立病院・療養所の再編統合は行政改革の一環で、同じ病院グループ内での再編統合だった。しかし同じ病院グループといは言え、その過程では大変な思いもした。これに対して、これから進むのは地域内での経営主体の異なる病院の再編統合だ。こちらは公立病院の場合は自治体の首長との関係もあり、選挙の争点にもなり、国立病院機構の再編統合の数倍の大変さが伴うだろう。

 しかし病院の地域再編のポイントは同じだ。明確なビジョンの設定と、病院職員、地域住民との徹底した対話に尽きる。

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