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芥川と横須賀


 芥川龍之介は大正5年7月、東京帝国大学を卒業する。しかしすぐに就職口が見つからず、一高の恩師畔柳教授の紹介でその年の12月から横須賀の海軍機関学校に教師として就職した。海軍機関学校は海軍工廠の技術者を養成する学校だ。そこで芥川は英語を教える。

 最初は東京から横須賀まで通ったが、一時間以上掛かり遠すぎるため、鎌倉の江ノ島電鉄の沿線に下宿した。芥川は海軍機関学校をこう評している。「学校は格別面白くはありません、時々まちがったことを教えて生徒につっこまれます。生徒は皆勇猛な奴ばかりであらゆる悪徳は堂々とやりさえすればいつでも善になるかのごとき信念を持っています」。

 芥川はこの機関学校の校長と昼休みに文学談義もしている。「校長、そりや駄目です」と芥川が云った。「面白いという意味が違いますよ」。老校長も面白がって、若い芥川をからかっているらしく、芥川も又それを承知して老校長と論争を楽しんでいたらしい。

 しかし鎌倉から機関学校に横須賀線で通うのも億劫になったらしく、約一年弱で横須賀市の汐入に引越す。汐入の下宿について芥川は婚約者の塚本文に次のように手紙で書いている。「こんどの家は、お姿さんと女中と二人しかいない家です、横須賀ではかなり財産家だそうです、僕の借りているのは二階の八畳で家は古くても、落着いた感じのある所です」。この頃に書いたのがあの「羅生門」だ。

 そして大正7年2月に塚本文と東京の田端の自宅で結婚式を挙げる。それからは週末は東京で過ごし、週日は横須賀の汐入の下宿で過ごし海軍機関学校に通う生活を始める。そして、ある週末のある日、横須賀線で東京に戻るときの体験をもとに執筆した短編が「蜜柑」だ。

 大正8年3月に芥川は横須賀機関学校を退職する。芥川にとっては3年たらずの横須賀生活だが、多くの作品が生まれたのもこの横須賀の地だ。

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