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フィラデルフィア染色体


 1980年代の終わりに米国のニューヨークに留学していた。留学中はときどき週末旅行にでかけた。車でのロングドライブは苦手なので、遠出するときはもっぱらAMトラックの長距離列車に乗ってでかけた。いちどフィラデルフィアのペンシルバニア大学医学部に留学している日本人の留学仲間に会いにいったことがある。

 ちょうど訪れた時期は夏、蝉の鳴き声のする季節だった。ペンシルバニア大の構内もせみ時雨でうるさいほどだった。それにしても尋常ではない蝉の数だった。聞いてみるとなんと13年ゼミの大発生の年だという。13年ゼミは12年もの間、地下にいて13年目に一斉に羽化して地上にでてくるという。ちょうどその年が大発生の年にあたっていたのだ。道路には大量の13年セミの死骸がころがっていて、車のスリップ事故になるくらいだという。

 さて、ペンシルバニア大学の医学部は数多くの著名な医学者を輩出している。その中には血液学の大家もいる。血液学といえば、学生のころの血液内科の病棟実習で、慢性骨髄性白血病の患者さんのお腹を触らせてもらったときのことをいまでも覚えている。その患者さんの固く腫れた脾臓に触れた感触はいまだ手にのこっている。またその患者さんの採血したときの血の色が、まさに白血病という名のとおり、血液がうすいピンク色をしていた。「白い血液」の病気である白血病という名をつけたのはドイツの病理学者のウイルヒョウだが、彼が1845年に最初に報告したのが慢性骨髄性白血病だった。

 フィラデルフィア大学に話をもどそう。この大学の名前がつけられた白血病患者の染色体がある。それが慢性骨髄性白血病の染色体マーカーとして有名なフィラデルフィア染色体だ。このフィラデルフィア染色体が発見されたのもペンシルバニア大学だ。ただこの発見は偶然の産物だった。

 フィラデルフィア染色体の発見は1960年のことだ。当時ペンシルバニア大学医学部の臨床病理医だったPeter Nowellは白血病細胞の血液培養をしていた。ある日、この培養液の一滴をスライドグラスにとって顕微鏡で見た。このとき偶然に低浸透圧の洗浄液のせいで白血病細胞が膨潤して壊れて、分裂期の染色体が、ばらばらになった状態で顕微鏡下に一挙にひろがった(写真)。

 このときNowellには染色体の知識はほとんどなく、これまで組織標本ではみたことのないこの風景にただ唖然とするばかりだった。それも無理からぬ事で、当時のヒトの染色体に関する知識といえば、その数すら48本なのか46本なのかで、もめていたように、まだまだ発展途上だったのだ。

 そこで、Nowellは染色体の専門家の助けを求める。助っ人としてやってきたのは同じペンシルバニアのがん研究所の大学院生のDavid Hungerfordだった。彼はちょうどヒトの染色体で学位論文を書こうとしていたので、すぐにNowellの申し出に飛びついた。そしてNowell が白血病細胞を培養し、Hungerfordが染色体を観察するという研究プロジェクトがスタートする。

 最初、二人は急性白血病からこの観察をはじめたが一向に成果は上がらなかったという。ところが、慢性骨髄性白血病の男性患者の血液標本を観察したときに、正常ではみられない染色体の出現にHungerfordは気づく。最初、この発見はフィラデルフィアで行われた学会に控えめに発表される。

 後に、その発見地の名前を冠したフィラデルフィア染色体は、ヒトの染色体の9番と22番の染色体の一部が切断して、相互転座することでできる異常な染色体だったことがわかる。そして95%の慢性骨髄性白血病患者であらわれるので、この白血病のゴールデンマーカーと呼ばれるようになる。

 ペンシルバニア大学というと、友人とソフトシェルクラブを食べたことと、フィラデルフィア染色体の話を思い出す。

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