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ブドウ園の1デナリオン


 聖書に、ブドウ園の労働者のたとえ話がでてくる。「マタイによる福音書」第20章1~16節だ。そこでは朝から働いた人も、夕方から来た人も、みんな同じ1デナリオンの報酬が、ブドウ園の主人から支払われる

 最初、この話を聞いたときは、「あれ?ずいぶん不公平なんじゃないの?」と思った。「どうして朝から働いている人と、夕方から来て働いている人が同じ賃金なの?労働の対価としての賃金としては、合理性がないのでは?」と思った。

 実際にこれに不満を持つ人もいた。これに対してブドウ園の主人はこう答える。「自分のものを自分のしたいようにするのは当然ではないか」。ますますワケがわからなくなる。「そんな主人の勝手気ままで賃金が決められてよいのか?」と思う。

 実はこの話の真意は、神の恵みは「働きの量」ではなく「神の意志」によって与えられるということにある。つまり、神の恵みは「契約」ではない。「恵み」は人の働きや努力の量に比例する報酬ではなく、神の愛と意志によって与えられるものという意味だ。

 神の「恵み」(grace)は報酬ではなく、神からの「無償の贈り物」で、人間の努力や功績とは無関係に与えられるものだという。ぶどう園の主人が労働者に与える報酬も、彼らの働きに対する「対価」ではなく、主人の「意志」と「慈しみ」による贈り物だという。

 でもよく考えてみると、これって、どこかベーシック・インカムの考え方に似ているのではないか?ベーシック・インカムでは、「どれだけ働いた」のではなく、「どれだけ必要としているか」で支払われる仕組みだ。

 ぶどう園の主人の1デナリオンは2千年前のベーシック・インカムだったのではないのか?ベーシック・インカムは社会の公平性と安定性を担保する基盤だ。

・・・と考えると1デナリオンが、神の下の公平性ということから極めて合理的な考えであるように思えてきた。

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