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PAPスメア


 1980年代の後半、ニューヨークで家庭医療の留学中に産婦人科をローテーションで回ったことがある。日本では学生のときに産婦人科の見学実習をした程度で、実際に分娩介助の手伝いをしたり、子宮がん検診をしたりするのはニューヨークで初めての経験だった。子宮がん検診の当番にあたったときは、ブルックリンの州立病院キングスカウンティの婦人科診察室で毎日、地元のご婦人たちの内診と子宮頚部のスメア採取に明け暮れた。

 スペキュラ(クスコ)で子宮頚部を直視下に見て、木製のヘラで頚部スメアを採ってスライドグラスに薄くぬる。それに固定液を吹きかける。こうして行う子宮頚部の細胞診をニューヨークでは「パップ(PAP)スメア」と呼んでいた。

 はじめは「パップってなんだろう」と思ったが、しばらくしてそれがパパニコロ染色のことだとわかった。パパニコロ染色は多重染色の一種で、ヘマトキシリン、オレンジG、ライトグリーン、エオジン、ビスマルクブラウンの5つの色素で細胞を染め出す染色方法だ。

 さてこのパパニコロ染色による子宮がんの細胞診法を確立したのがジョージ・パパニコロ(1883-1962年)だ。パパニコロはギリシャ生まれで、ニューヨークで活躍した病理医だ。パパニコロは1904年にアテネ大学の医学部を卒業したあと、ミュンヘンの大学院で動物学の博士号をとり、モナコの海洋生物学研究所で研究者としての道を歩んでいた。

 しかしそのパパニコロの運命を変えるのが、ギリシャとトルコの間で1912年にはじまったバルカン戦争だった。このバルカン戦争に彼は軍医として従軍する。そしてその戦争中に出会ったギリシヤ系アメリカ人の軍医から新天地アメリカの夢を吹き込まれる。そして1913年にパパニコロはニューヨークに妻とともに渡る。

 しかし、ニューヨークにギリシア移民として渡った当初は、彼は一言も英語もしゃべれず、しばらくは職にも就けなかった。このため彼はカーペットのセールスマンやレストランのバイオリン弾き、ギリシャ語系の新聞社の事務員をして食いつないだという。しかし、しばらくしてニューヨークのコーネル大学病院の病理部門の助手の職を得る。

 つぎにパパニコロの運命を変えるのが、1920年に膣スメアの細胞染色を行って、子宮頚部のがん細胞を発見したことだ。このときの経験を彼は「研究人生の中でもっともスリリングな経験だった」と書いている。パパニコロはこの経験を1928年に「新しいがん診断法」として論文にまとめる。しかし、この安価で確実ながん診断方法も、最初から米国の医学会で認められたわけではない。ようやくその信頼性が学会で受け入れられ、子宮頸がんのスクリーニング方法として確立するのは発見から20年もたった1950年代に入ってからだ。

そしてそれ以降、パパニコロの開発したPAPスメアは、世界中の何億人のもの女性の命を子宮がんにから救うことになる。