
1995年3月下旬のまだ肌寒い曇り空の日、シカゴオヘア空港に降り立った。これから10日にわたってはじまるJCAHO本部のクオリテイ・マネジメントセミナーに出席するためだ。JCAHOは、海外の病院関係者にもその活動を紹介するための国際研修セミナーを開いている。
この10日間のセミナーはJCAHOの活動全般を紹介するセミナーで、シカゴ郊外にあるJCAHO本部で、毎日、朝から晩まですし詰めスケジュールで行われる。本部から毎朝、定宿としていたホリデーインに迎えのシャトルバスがやってくる。そのバスにサーベーヤーの定期研修できている米国のサーベーヤーたちと一緒に乗り込んで、JCAHO本部に通勤の毎日だった。一緒に乗り合わせた米国のサーベーヤーは言う「病院のサーベーのため、旅から旅の毎日だ。今日はシカゴ、明日はニュージャージとキャンピングカーで移動している」。
そんな研修も終わりに近づいたころ、病院見学が研修プログラムに組み込まれていた。200床ぐらいのシカゴ郊外の典型的なコミュニテイ・ホスピタルの見学ツアーだった。この見学で整形外科病棟を訪問したときに、ナースステーションで、はじめてクリティカルパスに出会った。「あれ、これって何?」と言うのが率直な印象だった。図がその時であった頸椎手術のクリティカルパスだ。
そばにいた看護師さんに聞くと、最近、病棟の業務改善プログラムであるPI(パフォーマンスインプルービング)委員会の一環で取り組んでいるという。「年配のアテンデイング・ドクターの中には、こんな定型的なプログラムで縛られるのはかなわないという人もいるけど、レジデントには好評ですよ」という。「それにアウトカムも明確になっているので、みんなが目標を共有できる。それで看護師はみんな熱心にとりくんでいるのよ」とのことだ。
なるほど、「これは目からウロコだ、なんでこんなことに今まで気付かなかっただろう」と思った。早速、帰国した翌年に「PI委員会とクリテイカルパス-米国病院看護部の新しい取り組み-」(「看護部門」Vol.9,No.1 日総研出版1996年)というエッセーを書いて、クリテイカルパスを紹介した。しかし、なんの反響もなかった。このクリテイカルパスが、国内で、そのブームに火がつくのは1998年ごろからである。
さて、クリテイカルパスにわたしが最初に出会った1995年の3月20日の夜、ホテルに帰ると、「地下鉄サリン事件」の第一報が、東京からの国際ニュースとして飛び込んできた。クリティカルパスと地下鉄サリン事件がわたしの中で出会った日だった。