
長野の地方都市の国立病院にいたころ、医療安全の一環で患者クレームを担当していたことがある。患者さんのクレームは様々だ。医師や看護師に対するクレームには「なるほど、もっとだ」と思うこともあるが、中にはヘンなクレームもある。
あるときその都市の市長の友人だと言う方が来られて、看護師や受付窓口の事務の対応で意見があるという。聞くと入院した折に感じたことがいくつかあるという。お話をお聞きするとなるほどと思い、「ご意見ありがとうございます。こちらで検討してお返事したいと思います」と言ってお帰りいただいた。
すると数日を置かずまた病院に来訪された。こんどは病院の施設設備についていろいろ意見を述べられ、「市長にもよく話しておく」と言われて帰られた。しかしまた数日を経ず来訪された。「いや~熱心な方だな~!」と思っていたところ、近くの精神科病院の院長から電話があった。「いや~!すまんすまん。躁病の患者でリチウムの血中濃度が下がっていて、迷惑をかけた」と言う。「躁状態になると、あちこちを回ってクレームをつけて迷惑をかけている」のだという。リチウムは炭酸リチウムのことで、躁病の患者を鎮静化させる作用をもつ。この患者さんの場合、リチウムの血中濃度が下がって躁病が再発したのだった。
このリチウムの作用を発見したのは、オーストラリアの精神科医ジョン・ケイド(John Cade)だ。彼が精神疾患の原因を探る研究をしていたときのことで1949年のころだ。彼は「躁うつ病の患者は体内に毒素(特に尿酸)がたまっているのでは?」と考えて、モルモットに患者の尿を注射して反応を観察していた。でも、尿酸は水に溶けにくい。そこで、尿酸を水に溶かすためにリチウム塩(炭酸リチウム)を混ぜた。
すると、リチウム入りの尿酸を注射されたモルモットが、おとなしくなった。 「これはもしかしてリチウムの効果では?」と気づいたケイドは、今度はリチウム単体をモルモットに投与したところ、やっぱり落ち着いた!そこでケイドは、自分自身でリチウムを飲んで安全性を確認したあと、躁状態の患者に投与した。すると、驚くほど症状が改善した。
こうしてリチウムは双極性障害(躁うつ病)の治療薬として世界中で使われるようになった。今でもリチウムは「気分安定薬(ムードスタビライザー)」の代表格として用いられている。ただ未だになぜ効くのかははっきりとはわかっていない。
